韓国の人気アイドルグループ「KARA」の専属契約をめぐる問題で、所属事務所を訴えていたメンバー3人が訴訟を取り下げることになりました。従来通り、5人での活動を続けることになります。
この問題は、KARAのメンバー5人のうちの3人が今年2月、所属事務所のDSPメディアに対し、専属契約の無効を求める訴えを起こしていたものです。
3人は「休養が必要なのに無理に仕事をさせられた」などと主張していましたが、事務所側は28日、「話し合いの結果、訴訟を取り下げることでメンバーと合意した」と発表しました。29日にも今後の活動予定を発表するということです。
待ちに待った、KARA和解ですね。
ようやく、5人揃った姿が見れるようになりましたね。KARA頑張れ!
2011年4月28日木曜日
2011年4月22日金曜日
なぜ?どうなる?
所属事務所と紛争中のハン・スヨン、ニコル、カン・ジヨンらKARAの3人が1カ月以上姿を見せないでいる。
3人は、東日本大震災を避けて先月12日に急きょ帰国して以来、外部へ姿を一切見せていない。日本での3枚目のシングル「ジェットコースターラブ」がオリコン週間シングルチャートで1位入りを果たして話題を集めたが、彼女ら3人の姿を見ることはできなかった。残留組のパク・ギュリとク・ハラはそれぞれラジオパーソナリティーや女優として活発に活動している中、隠とん組3人に関心が集まっている。
今年1月にKARA専属契約解除問題が起きて以来、3人の国内活動は全てストップしている。日本への出国現場で顔を見ることはできたが、日本の大震災のあとは現地のプロモーションが全てキャンセルされ日本の活動の機会すらなくなってしまった。ある関係者は「3人は日本向けシングルのレコーディング以外はしばらくスケジュールがない。日本で活動する時にはメンバー全員が行動をともにするものの、レコーディングは個別に行うためメンバーらが顔を合わせることもない」とし「非常に騒がしい状況なので、3人は出入りを慎み、外部に姿を見せることはほとんど控えて過ごしている」と話した。
3人は普段も事務所マネージャーらとの接触がほとんどない。側近は「パク・ギュリはラジオのパーソナリティーを務め、ク・ハラはドラマ『シティーハンター』の撮影があり、毎日マネージャーらとしか会わない。しかし3人は所属事務所のオフィスにも姿を見せず、お互いに会うこともない」と話した。
3人が国内活動を再開する気配はないようだ。関係者は「日本の活動は可能な限り早いうちに再開するつもりだが、韓国の活動は未知数」とし「事務所側と3人の弁護士側が協議案をめぐって話し合いを続けている。協議案をやり取りして多くの意見をすり合わせ、近いうちに結果が出ると思う。しかし劇的な妥結に至っても、すぐに国内活動を再開するにはプレッシャーも感じるだろう」と話した。
一方、パク・ギュリとク・ハラは先月開かれたソウルファッションウイークのファッションショーにも参加し、本業以外の仕事をこなす余裕を見せていた。KARA専属契約解除問題が起こる前の通常軌道にほとんど戻ったような様子だった。
(中央日報より)
3人は、東日本大震災を避けて先月12日に急きょ帰国して以来、外部へ姿を一切見せていない。日本での3枚目のシングル「ジェットコースターラブ」がオリコン週間シングルチャートで1位入りを果たして話題を集めたが、彼女ら3人の姿を見ることはできなかった。残留組のパク・ギュリとク・ハラはそれぞれラジオパーソナリティーや女優として活発に活動している中、隠とん組3人に関心が集まっている。
今年1月にKARA専属契約解除問題が起きて以来、3人の国内活動は全てストップしている。日本への出国現場で顔を見ることはできたが、日本の大震災のあとは現地のプロモーションが全てキャンセルされ日本の活動の機会すらなくなってしまった。ある関係者は「3人は日本向けシングルのレコーディング以外はしばらくスケジュールがない。日本で活動する時にはメンバー全員が行動をともにするものの、レコーディングは個別に行うためメンバーらが顔を合わせることもない」とし「非常に騒がしい状況なので、3人は出入りを慎み、外部に姿を見せることはほとんど控えて過ごしている」と話した。
3人は普段も事務所マネージャーらとの接触がほとんどない。側近は「パク・ギュリはラジオのパーソナリティーを務め、ク・ハラはドラマ『シティーハンター』の撮影があり、毎日マネージャーらとしか会わない。しかし3人は所属事務所のオフィスにも姿を見せず、お互いに会うこともない」と話した。
3人が国内活動を再開する気配はないようだ。関係者は「日本の活動は可能な限り早いうちに再開するつもりだが、韓国の活動は未知数」とし「事務所側と3人の弁護士側が協議案をめぐって話し合いを続けている。協議案をやり取りして多くの意見をすり合わせ、近いうちに結果が出ると思う。しかし劇的な妥結に至っても、すぐに国内活動を再開するにはプレッシャーも感じるだろう」と話した。
一方、パク・ギュリとク・ハラは先月開かれたソウルファッションウイークのファッションショーにも参加し、本業以外の仕事をこなす余裕を見せていた。KARA専属契約解除問題が起こる前の通常軌道にほとんど戻ったような様子だった。
(中央日報より)
2011年4月17日日曜日
名曲です・・・
こちらが、正規MV。
こちらが、URAKARA最終回のエンディングバージョン。
以前のブログにも書きましたが、ファンクラブの一員として
厳選なる抽選が、当りURAKARAエキストラとして参加し
生KARAを見てきました(涙)
生KARA、生ギュリ最高でした!!!
2011年4月15日金曜日
KARAの次に好きなもの・・・
CBX400F(シービーエックスよんひゃくエフ)は、本田技研工業が1981年から1984年にかけて製造・販売していたオートバイである |
そして当時の400ccクラス随一の48馬力を獲得しただけでなく、完成度が高くスポーツ性の高い走行性能もあって瞬く間に他社の4気筒スポーツモデル以上の売り上げを記録、それから長い間安定した人気を得たヒット車種となる。 1982年には日本で初めてフェアリングや方向指示器キャンセル機構を装備したCBX400Fインテグラが発売され[2]、姉妹車として排気量を拡大したCBX550Fインテグラも発売された[3]。 |
時代は本格的なレーサーレプリカブームに突入。ホンダの後継モデルであるCBR400Fへバトンタッチされる形で1983年に一旦は生産を終了したが、レーサーレプリカとは一線を画すCBXの人気は、その後も依然として治まらず、市場からの再生産の要望により翌年の1984年に再生産が行われた。その結果、当時の125cc超の二輪車の累計販売台数で総合1位になっている。なお、この記録は2003年にヤマハ・マジェスティに抜かれるまでは、長い間破られなかった。 ちなみに、左にあるのがHONDA CB250N MC03型 |
この、一冊があればこの車両に関してのメンテナンスは、すべてできるようになれます。 |
2011年4月11日月曜日
予約うけちゅけちゅう。
2011年4月10日日曜日
URAKARAの・・・
本日は、私の師匠ことTETLA THE BACKDOROPさんと、プチKARA聖地ツアーを 開催いたしました。 まずは、KARAの日本での合宿所、撮影終了後なので、門扉などが多少違いますが 違う部分は、大道具を使っていたようです。 |
玄関正面、KARAメンバーここから出入りしていたと考えるだけで・・・ |
この画像のウッドデッキで第9話でギュリが網浜伊知郎に父、網浜吾朗の 作ったアナゴ寿司を食べさせた場所。 |
この扉の向こうで、色々な撮影がされていたんですね。 感動です(涙) |
記念に一枚。 |
こちらが、第8話のスンヨンと長井与太郎がジュース飲みながら 話してるシーンを撮影した場所。 |
まだまだ、行きたい撮影場所。 近々行きたい新大久保。 URAKARAが終わり、寂しく 次、いつテレビや生で見れるかわからない今 せめて、そうゆう聖地を巡り少しでもKARAを感じていたいと思う今日この頃です(涙) |
2011年4月3日日曜日
TETLA THE BACKDROPさんと・・・・
登録:
投稿 (Atom)